何故ネトウヨは調べもせずに捏造と言えるんだろう

人民日報、人権問題でダライ・ラマを非難

中国の新聞「人民日報」海外版は19日署名入りの文章を発表し、人権問題でダライ・ラマを強く非難しました。

 この文章は、「1948年の12月、パリで開かれた国連総会では『世界人権宣言』を採択した。この宣言には、いかなる形式の奴隷制度と奴隷売買は禁止されるべきだと明記している。昔のチベットではダライ・ラマが領主であり、邪悪勢力の代表であった。当時、ダライ・ラマの生誕記念日を迎えるため、農奴は生きたまま皮を剥がされ、内臓を抉り取られ、首を切られたりした。これは人間のやることではない。。ダライ・ラマは『人権』を論じる資格がまったくないのだ」と指摘しています。

今更こんな昔の事を蒸し返してどうなるって状況じゃないのは誰もが分かってる事です。が、それとは違う話で、呆れた事にこれを調べもせずに「捏造!捏造!」とヒステリックに喚いてるネトウヨさんが…。何故調べもせずに捏造と言えるんですかね。ある情報がデマである事を証明するのって結構な手間と暇と時間が掛かる場合が大多数ですよ。その手間暇時間をかけずに軽々しく捏造認定なんておこがましいのです。


「いやこれ事実ですから」と指摘してやろうかと思いましたが、既に該当スレで指摘済みの人がいましたのでレスを転載します。


【人権】かつてダライ・ラマの邪悪勢力は農奴の皮を剥ぎ臓物を抉り取り、首を叩き斬っていた・・人民日報紙が糾弾★2(魚拓)

472 名前:名無しさん@八周年[sage] 投稿日:2008/04/19(土) 19:40:49 id:jwI1BLXN0
ほら、拾ってきてやったぞ。


チベットの拷問の方法はごく残酷である。またその処刑もごく野蛮な遣り方である。
獄屋というようなものも、なかなかこの世のものとは思えない程の所で、まずその
拷問法の1つ2つをいいますと、割竹で指の爪を剥すとか、あるいは石でこしらえた
帽子を頭に載せるという仕方もある。それはまず初めに一貫匁くらいの帽子を載せ、
それからその上に同様の帽子をだんだん5つ6つと載せていくので、初めは熱い涙が
出ている位ですが、しまいには目の玉が外に飛び出る程になってしまうそうです。
それから叩くといったところで柳の太い生棒で叩くのですから、しまいにはお尻が
破けて血がほとばしっている。
 それでも三百なり五百なり決めただけの数は叩かなければ止めない。もっとも三百も
五百も叩く時分には、半場でちょっと休んで水を飲ましてからまた叩くそうです。
叩かれた者はとても病気せずにはいられない。小便は血のような真っ赤なのが出る。
私はそういう人に薬をやったことがあります。またそのお尻の傷なども見ましたが、
実に惨たらしいものであります。獄屋もかの寒い国でどこからも日が差さないような、
昼でもほとんど真っ暗闇というような中に入れられているので、衛生もヘチマもありゃあしない。
それから眼球をくりぬいてしまう刑、手首を切断する刑、それもじきに切断しない。
この両方の手首を紐でくくって、およそ半日ほど子供がよって上げたり下げたりして
引っ張っているのです。するとしまいには手が痺れきって、我が物か人の物かわからなく
なってしまうそうです。その時に人が見ている前で切断してしまうのである。
ラサ府の乞食にはそういう刑に処せられたのが沢山いる。
最も多いのが眼球をくりぬかれた乞食、それから耳そぎの刑、鼻そぎの刑
〜1904年 河口慧海西蔵旅行記』より〜


【中国】人民日報、人権問題でダライ・ラマを非難「農奴は皮を剥され、内蔵を抉られ、首を切られた」

419 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[sage] 投稿日:2008/04/19(土) 18:13:27 ID:5FINY0/Z
ダライ・ラマ統治時代の人権状況を表す最も有名な史料から紹介を始めます。
あの『ノーと言える中国』でも触れられています。
50年代に、カシャクから「熱不典の頭目」(地方有力者か)に宛てた手紙であり、
現在、西藏自治区档案馆に保管されています。


Quote:
[資料]
为达赖喇嘛念经祝寿,下密院全体人员需念忿怒十五施回遮法,为切实完成此事,需当时抛食,急需湿肠一付,头颅两个,各种血,人皮一整张,望即送来。

(日本語訳)
ダライ・ラマの誕生日祝賀のため、下密院全体成員は「忿怒十五施回遮法」を唱えねばならず、この仏事のために、湿った状態の腸一本、頭蓋骨二個、各種の血液(浄血と汚血とがあるらしい)、人間の皮丸々一枚が必要であり、至急送ってくるように。


[関係資料]
剥がされた農奴の生皮


(注)解放軍が進駐した後でも1959年の叛乱までは、
17ヶ条の協定を見ても判る通りダライ・ラマの地方政府が存続したのをはじめとして、
チベットの社会制度に対して共産党が干渉、改革を控えていたので、
50年代になってもこのような事例が発生している。


また、ダライ・ラマ統治下で使われた『十三法典』『十六法典』では、
明確に人を上・中・下の三等、更にそれぞれを上・中・下の三級に分けてあり、
『十三法典』七条では、
下等下級人(女性はこれに準ずる)の命は「草縄一本」に値するとされています。
上のような行為も当然ですね。
『十三法典』八条では、
庶民が官吏に傷を負わせた場合傷のひどさを勘案してその手足を切り取る
主人が下僕を傷を負わせた場合賠償という概念は無い
と規定しています。
『十三法典』四条で定められた肉刑は
挖眼(目を抉る)、别足(足を切断)、割舌(舌の切断)、砍手(手の切断)、推崖(崖から落とす)、溺死等があり、
実際チベットの現代化を図った貴族・龍厦(ルンシャー)は目を抉られています。
念のために言うと1930年代です。
その時の様子は、


Quote:
「丸いヤクの骨を囚人のこめかみに当て、その上からベルトで頭を縛り付けて、目玉が飛び出すまで棍棒を頭の上で回転させる。(中略)一つの目玉しか出てこなかったので、処刑人はナイフでもう片方の目玉を抉り出した。最後に、灼熱した油を傷口に注ぎ込んだ」


と梅・哥紱斯坦(Goldstein)なる人物が著書《喇嘛王国的覆灭》で記しています。
簡単に言うと、
人権という概念を当てはめること自体を躊躇させるような、
他の地域では中世以前の社会制度が、
1950年代までチベットで残っていたということです。
http://jpbbs.cri.cn/viewtopic.php?t=5743&postdays=0&postorder=asc&start=25&sid=211d2d3772f24f55322de595a0938c29


必死にこれらを捏造って事にしたいネトウヨさん達の姿を見るにつれ、「ああ…、この種の人達は『事実』なんてものを調べようとする気はハナっから無いんだろなぁ…」と脱力してしまいます。