ネット右翼、滅多打ちにあうの巻

【慰安婦問題】 “産経・読売 vs 朝日・毎日” 社説で主張対立…「偽史の放置するな」「河野談話継承は当然」
ネット右翼、まず軽く無知を晒す。

209 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2007/04/02(月) 17:40:30 0dUUT5P10
>>207
関係ない。和平工作の問題じゃないのが分からないか?

国際法で捕虜と認めてもらうなら、
指揮官が分かるように、手続きをして降伏しないといけない。

南京陥落する際、国民党の手続きが余りにずさんで、
降伏なりオープンシティにする手続きをするはずの大将が
真っ先に逃げた事実は覆せない。

国際法上、こうなったら捕虜になる資格がなくなるんだよ。
でも日本軍は、国力の限り捕虜にするなり逃がそうとしていた。
それが間に合わなかった例もわずかにあった。
これが「南京大虐殺」の現実。
なお蒋介石は、この逃げた大将・唐を罰する事もなかった。
国際法の概念など根付いてなかったんだろうな。

国際法の概念が無いのはお前さんの方。捕虜の資格が無くなっても、裁判を経ずに捕虜を処刑するのは国際法違反。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AA%E3%83%A9
条約が課した条件を満たさない状態で戦闘した兵士が敵に捕らえられた場合、
捕虜として遇されることはなく、その戦闘参加行為を犯罪として裁かれる可能性がある。
しかしこの場合でも捕虜として待遇されないというだけで、
裁判なしの処刑は認められない(ハーグ陸戦条約23条)。
第23条:特別の条約により規定された禁止行為以外に、特に下記の物を禁ずる。
兵器を捨てた自衛手段を持たない投降者を殺傷すること
相手国国民の権利消滅、停止、裁判の不受理の宣言


神、出現す。

211 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 17:41:59 shjGzcZg0
「第四編 武漢攻略前後」より
 三 戦場軍、風紀今昔の感と私の覚悟

 私は、従来書物によって日清戦争、北清事変、日露戦争当時における我軍将兵の軍、
風紀森厳で神兵であったことを知らされ、日露戦争の末期には自ら小隊長として樺太の戦線に加わり、
大尉のときには青島戦に従軍し、関東軍参謀副長および第二師団長として満州に出動したが、
至るところ戦場における軍、風紀は昔時と大差なく良好であったことを憶えている。
それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、
それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければならない
と覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、それはわれらの目的は
蒋介石の軍隊を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。


 上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、
抗州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。

一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。

一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。

 註 後には荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。

一、上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。

一、最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕らえられれば殺され、
  退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。

 
 (「岡村寧次大将資料」(上) P290〜P291)
212 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 17:42:34 shjGzcZg0
第四編 武漢攻略前後」より
 二十一 再び今昔の感 (十三年十月〜十二月)

 将兵の言動を観察し、日露戦役北清事変の昔時に比べて低下したと思われる点概ね左のとおりである。

(イ) 上官に対する服従心の低下(犯罪統計、言語態度、敬礼等)

(ロ) 性道徳の低下(強姦、慰安婦随行)

(ハ) 公共心の欠乏は益々甚しい(兵器破損したとき修理機関へ送付するの労を省き、これを路傍に遺棄する。
    他隊の馬を盗むこと流行、前送洫兵品の横取り等々、なお後述)

(ニ) 幹部で横領、収賄の罪を犯すものあり

(ホ) 処置面倒なりとて俘虜を殺す蛮風あり

(以下略)

(「岡村寧次大将資料」(上) P318〜P319)
213 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 17:43:49 shjGzcZg0
徳川義寛侍従長の遺言」より
 昭和十二年の南京占領の時、日本軍がひどいことをしたということは、私は当時から知っていました。
中国人捕虜を数珠つなぎにして撃ち殺すとか・・・。私の大学の友人で軍医だったのが、朝香宮さまのお供で
現地へ行って見聞した話を、私は聞いていたからです。

 それに、南京攻略の総大将松井石根さんは名古屋の人で、私の母(徳川寛子)が松井さんの奥さんを
よく知っていましたし、私の父(義恕)は名古屋の軍人の会の会長をしていましたから。

 松井さんは中国の勤務が長く、南京攻略後、「相手の死者も浮かばれまい」と、現地で日中両方の
死者の慰霊祭をやろうとした。ところが、下の師団長クラスの連中に笑われ反対されたということでした。
みな、「戦争なんだからそういうこともあっても・・・」といった感じだったそうです。

 松井さんは日露戦争も経験していたから、日本の捕虜の扱いが日露の頃は丁重だったことをよく知っていた。
しかし、南京では、上の言うことを下が聞かず、軍紀の抑えがきかなくなっていた。
それで松井さんは後に熱海に興亜観音を造った。松井さんは立派だったと思いますね。

 南京虐殺があったとか無かったとか論争があるようですが、当時も関係者の多くは事実を知っていたんです。
陛下が知っておられたかどうかはわかりませんが、折に触れて「日露戦争の時の軍と違う」ということはおっしゃっていました。
明治天皇のご事蹟をよく知っておられましたから。

(「侍従長の遺言」 P38〜P39)
214 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 17:44:14 shjGzcZg0
河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』より
 作戦休憩案

 こうした一般の情勢のほかに、軍中央部の一員である私どもにとり、はなはだ気になってきたことは、戦場軍隊の士気であった。
 
 前年の夏動員された在郷の将兵は、”お正月までには帰って来るヨ”と妻子を慰撫して家を出た者も少なくなかった。
 一気呵成にここまで来たものの、前途果たして如何になるか、”相手にしない”といってみたとて、
 相手がこちらを相手として来る「戦争」というものの本質をどうしよう。

 華北にせよ華中にせよ、戦場兵員の非軍紀事件の報が頻りに中央部に伝わって来る。
 南京への進入に際して、松井大将が隷下に与えた訓示はある部分、ある層以下に浸透しなかったらしい。
 外国系の報道の中には、かなりの誇張や中傷の事実を認められたし、殊にああした戦場の常として、
 また特に当時の中国軍隊の特質などから、避け得なかった事情もあったようであるが、
 いずれにせよ、後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実が現われた。

 南京攻略の直後、私が命を受けて起案した松井大将宛参謀総長の戒告を読んだ大将は、
 ”まことにすまぬ”と泣かれたと聞いたが、もう事はなされた後であった。

(『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』P153〜P154)
215 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 17:44:38 shjGzcZg0
昭和十二年十二月十五日、南京にて

 ライライと何度もどなつてゐると、中の奴が、戸口の方へ来る様子です。
出がけに打たれてもばからしいと思つてゐると、戸が内側からあいて、
若い支那兵の顔が見え、向ふから銃をさし出しました。

(中略)

 つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、はがいい、
とか何とか云ひながら、蹴つたり、ぶつたりする、誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、八人ほど見る間についた。
支那兵は非常にあきらめのよいのには、おどろきます。たたかれても、うんともうん(ママ)とも云ひません。
つかれても、何にも叫び声も立てずにたほれます。

 中隊長が来てくれといふので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみると、
既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこんでゐました。
山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。散兵濠の水はまつ赤になつて、
ずつと向ふまで、つづいてゐました。

 僕が、濠の横に行くと、一人の年とつた支那兵が、死にきれずに居ましたが、
僕を見て、打つてくれと、眼で胸をさしましたので、僕は、一発、胸を打つと、まもなく死にました。
すると、もう一人、ひきつりながら、赤い水の上に半身を出して動いてゐるのが居るので、
一発、背中から打つと、それも、水の中に埋まつて死にました。泣きわめいてゐた少年兵もたほれてゐます。

 壕の横に、支那兵の所持品が、すててありましたが、日記帳などを見ると、故郷のことや、父母のこと、
きようだいのこと、妻のことなど書いてあり、写真などもありました。戦争は悲惨だと、つくづく、思ひました。

(「国文学」2000年11月号 花田俊典「新資料 火野葦平の手紙」より)
216 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 17:45:07 shjGzcZg0
広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」より

 一体何故にかくの如き不祥事件が起こったのであろうか。この点に関して当時現地にあって
外交折衝の任に従事していた南京大使館参事官日高信六郎は次の如く語っている。
(略)
 普通なら、市の有力者が自治委員会などを組織して、迎えに出たり交渉に当ったりするものだが、
そういうものが全くなかった。ある意味では、非常に不幸なことで、そのようなことが結果的には日本軍をして
無茶なことをやらせるところまで追い込んだのだと思われる。
 しかし、何と言っても、残虐事件の最大の原因の一つは、上層部の命令が徹底しなかったことであろう。
たとえば捕虜の処遇については、高級参謀は松井さん同様心胆を砕いていたが、実際には、入城直後でもあり、
恐怖心も手伝って無闇に殺してしまったらしい。揚子江岸に捕虜たちの死骸が数珠つなぎになって
累々を打ち捨てられているさまは、いいようもないほど不愉快であった。
 しかし心がけのいい軍人も少なくなかったし、憲兵もよくやっていたが、
入城式の前日(十二月十七日)憲兵隊長から聞いたところでは、隊員は十四名に過ぎず、
数日中に四十名の補助憲兵が得られるという次第であったから、兵の取締りに手が廻らなかったのは当然だった。
そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。
戦争がすんでホッとしたときに、食糧はないし、燃料もない。みんなが勝手に徴発を始める。床をはがして燃す前に、
床そのものに火をつける。荷物を市民に運ばせて、用が済むと「ご苦労さん」という代りに射ち殺してしまう。
不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった。
(略)
 結論としては、叙上のような特殊の事情はあったし、また日本軍は軍紀厳正だと信じ切っていた日本人
一般の軍に対する過大評価も問題になるであろうが、根本は、軍人に限らず、日本人全体から、いつのまにか
モーラル・チェックというものが失われていたという点にあると思われる。いついかなる時も、
人として絶対にある程度以下のことはしないという心構えの欠如が、南京事件を惹起した最大の原因であると私は思う。

(「広田弘毅」P311〜P315)
220 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 17:46:48 shjGzcZg0
「中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして
言語に絶するものあり」 (阿南惟幾陸軍大臣 S12.12.22陸軍省局長会報におけるメモ)

(上海派遣軍を視察してきた江藤源九郎予備役少将からの報告を聞いて)
「同君は自ら日露戦争の苦き実験あり、今回も主なる責任者の談を交えて研究せり。従って同君
の意見は相当に権威あるものと云はざるべからず。之によれば一言にして云はば軍紀風紀頽廃し、
これを建て直さざれば真面目の戦闘に耐えずということに帰着せり。強盗、強姦、掠奪、聞くに
忍びざるものありたり」 (真崎甚三郎元陸軍教育総監 『真崎甚三郎日記』S13.1.28)
223 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 17:49:17 shjGzcZg0
> 「筆者は48年昔のこの事件のあった頃、陸軍大学校の学生であったが、すでに南京戦線である種の
> 「不法行為」の行われたことを耳にしていた。大学校の学生の耳にも洩れてくるほどこの問題は軍中央
> 部を悩ましたのであったのだった。従っていわゆる「南京事件」については日本軍が「シロ」であったとは、
> 筆者は初めから認識していない」 (加登川幸太郎 元陸軍参謀・軍事評論家 『偕行』 「証言による南京戦史(最終回)」)
>
> 「南京占領後における日本軍の南京市民に加へた暴行が相当にひどいものであつたことは、蔽ひ難き
> 事実である。当時私は北京に住んでゐたが、南京虐殺の噂があまり高いので、昭和十三年の夏、津浦
> 線を通つて南京に旅行した。南京市街の民家が概ね焼けてゐるので、私は日本軍の爆撃によつて焼
> かれたものと考へ、空爆の威力に驚いてゐたが、よく訊いてみると、それらの民家は、いづれも南京陥
> 落後、日本兵の放火によつて焼かれたものであつた」
>  (滝川政次郎 法学者・東京裁判日本側弁護人 『東京裁判をさばく(下)』)
>
> 「そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。戦争
> がすんでホッとしたときに、食料はないし、燃料もない。みんなが勝手に徴発を始める。床をはがして
> 燃やす前に、床そのものに火をつける。荷物を市民に運ばせて、用が済むと「御苦労さん」という代りに
> 撃ち殺してしまう。不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった」
>  (日高信六郎 元イタリア大使 (当時、南京駐在参事官) 広田弘毅伝記刊行会編 『広田弘毅』)

怒濤の一次資料の提示である。この攻勢に対するネット右翼の反応は、

225 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2007/04/02(月) 17:50:49 0dUUT5P10
>>211-213
一つも南京大虐殺を証明する一次史料がないね。

まず、岡村大将はその時、南京にいなかった。しかも、その話をしたのは戦後、
東京裁判南京大虐殺があったと宣伝されていた後。

・紅卍字会に埋葬された3万人(水増し)の殆どが、戦闘員と思われる成人男性だった。

・捕虜まで養いきれない状態となり、逃がしたり殺害してしまった例は
 残念ながら小数存在したが、市民虐殺とは全く異なる。

それ以外は「昔は良かった」を越えるものではない。

お得意の(∩ ゚д゚)アーアー見えない聞こえなーい戦法である。正直、コピペしてる私もウンザリしてくる。
ではそれに対する、神の反応を見てみよう。

234 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 18:06:02 shjGzcZg0
>>225
> まず、岡村大将はその時、南京にいなかった。しかも、その話をしたのは戦後、
> 東京裁判南京大虐殺があったと宣伝されていた後。

 上海に上陸して、一、二日の間に、←注目

このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、
抗州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。

一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。

一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。

 註 後には荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。

一、上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。

一、最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕らえられれば殺され、
  退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。

冷静である。

241 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2007/04/02(月) 18:15:08 0dUUT5P10
>>234
注目するベキがお前。事実を示しているのがコチラ。

>上海に上陸して、一、二日の間に
上海に上陸して、一、二日って明確に書いてある。
そしてコレが公開されたのは戦後。
当時は南京大虐殺は事実であるとGHQがキャンペーンを張っていたからな。

南京事件当時、岡村が南京にいなかったのは事実で、
しかも伝聞。それは一次史料ではない。
これが現実だ。

あくまで、自分に都合の悪いことは見たくないし、認めたくないようである。見苦しいと言わざるを得ない。
神は冷静に一次資料を提示するのみ。

244 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 18:18:34 shjGzcZg0
>>225
> 一つも南京大虐殺を証明する一次史料がないね。

第114師団 歩兵第127旅団 第66連隊 第1大隊戦闘詳報
(12月13日)
八、午後二時零分連隊長より左の命令を受く
      左記
 イ、旅団命令により捕虜は全部殺すへし
   其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何
 ロ、兵器は集積の上別に指示する迄監視を附し置くへし
 ハ、連隊は旅団命令に依り主力を以て城内を掃蕩中なり
   貴大隊の任務は前通り 九、右命令に基き兵器は第一第四中隊に命し整理集積せしめ監視兵
  を附す
  午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附意見の交換をな
  したる結果各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室
  より五十名宛連れ出し、第一中隊は露営地南方谷地第三中隊は
  露営地西南方凹地第四中隊は露営地東南谷地附近に於て刺殺せ
  しむることとせり
  但し監禁室の周囲は厳重に警戒兵を配置し連れ出す際絶対に感
  知させさる如く注意す
  各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺
  殺を終り
  連隊長に報告す
  第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失
  敗せり
  捕虜は観念し恐れす軍刀の前に首を差し伸ふるもの銃剣の前に
  乗り出し従容とし居るものありたるも中には泣き喚き救助を嘆
  願せるものあり特に隊長巡視の際は各所に其の声起れり
『南京戦史資料集1』P567-568
248 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 18:20:26 shjGzcZg0
>>225
> 一つも南京大虐殺を証明する一次史料がないね。

第114師団 歩兵第127旅団 歩兵66連隊 第1大隊所属 一兵士の日記

(12月13日)
 午後五時、南京外廊にて敵下士官6名を銃剣を以て刺殺す。亡き戦友の敵をとった。
全身返り血を浴びて奴ののど笛辺りをつきたるや、がぶ血をはいて死ぬ 。
背中と云はず腰と云はず、刺して刺して刺しまくり、死ぬるや今度は火をつけてやる。
中に、ウナリ乍ら(なが・ら)二、三尺はい出すのがある。生温い血が顔にはねる。
 手を洗はず夕食を全く久し振りで食べる。

秦郁彦南京事件』P159

形勢不利と見たネット右翼は、

245 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2007/04/02(月) 18:19:03 0dUUT5P10
>>238
ずいぶん劇的な名文でつづられた「大虐殺」だことw

まー捕虜殺害が小数存在したってのはまだ否定されていないし、
肯定する気は無いが、それはどこの国のどこの戦場にも付属する
「戦争犯罪」の範疇を越えていない。「民間人30万虐殺」の証拠はどこにあるんだ?

日本語を使えないコピペバカは、いい加減消えたほうがいいよ。
自分の言葉で反論することも出来ないほど知識がないんだったら。

勝手に俺様定義を持ち出し、形勢逆転を図るが、一蹴される。

253 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 18:24:33 shjGzcZg0
>>245
> 「戦争犯罪」の範疇を越えていない。「民間人30万虐殺」の証拠はどこにあるんだ?

私は「民間人30万人大虐殺」などとレスしたことは無いですが?
妄想ですか?

>>225
> 一つも南京大虐殺を証明する一次史料がないね。



佐々木到一少将私記 ささき とういち=歩兵第30旅団長(佐々木支隊隊長)・陸軍少将
十二月十三日

(略)
 午後二時頃概して掃蕩を終わつて背後を安全にし、部隊を纒めつつ前進和平門に至る。
 その後捕虜続々投降し来り数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。
 多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵ならずとも「皆やつてしまへ」と云ひ度くなる。
 白米は最早一粒もなし、城内には有るだらうが、俘虜に食はせるものの持合せなんか我軍には無い筈だった。
 和平門の城壁に登つて大元帥閣下の万歳を三唱し奉る。
 此日天気快晴、金陵城頭到る処旭日旗のへんぼんたるを見て自然に眼頭が熱くなった。
 中央門外に舎営、美しき寝台あれど寝具なし、南京米を捜し出してくる。(今夜はゆつくり睡られるぞ)
(略)


『南京戦史資料集1』P270-276

ついに、ネット右翼最終奥義、工作員or釣り認定が発動する。

255 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 18:26:50 IYt7y2gJO
>>251
http://stick.newsplus.jp/id.cgi?bbs=newsplus&word=shjGzcZg0
どうも釣りっぽい。
釣られたようだな兄弟。

というか最近こういう人見なくなった気がする。
ほとんど単発だし……
少しさみしい。
267 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2007/04/02(月) 18:41:26 0dUUT5P10
>>255
うはwwwww工作釣りか知らんがすげえなw

しかしまぁ、少しはN速+の方が工作員がいる気がしたんだが、
どんどん減ってきてつまらんね。

奥義名:釣り認定、工作員認定
使用者:ネット右翼
発動条件:議論が不利であること
効果:議論そのものをネタ化でき、まるで議論では無かったかの様に見せかける。
効果対象:同スレのネット右翼限定
副作用:敗北宣言と同義。


神はこれには一瞥もくれず、ただ提示するのみ。

259 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 18:29:01 shjGzcZg0
>>245
> 日本語を使えないコピペバカは、いい加減消えたほうがいいよ。
> 自分の言葉で反論することも出来ないほど知識がないんだったら。

議論の前提となるソースを提示されることがそんなに都合がわるいんですか?いきなり罵詈雑言浴びせられても困るんですけど???

>>225
> 一つも南京大虐殺を証明する一次史料がないね。

西田優上等兵 陣中日記
第16師団 第30旅団 歩兵第33連隊

12月14日

十一時三十分入城、広場において我小隊は敗残兵三七〇名、兵器多数監視、
敗残兵を身体検査して後手とし道路に坐らす。我は敗残兵中よりジャケツを取って着る。
面白いことこのうへなし、自動車、オートバイ等も多数捕獲す。各自乗りまはせ
り、八時頃小銃中隊に申し送り、昨夜の宿に帰る。敗残兵は皆手榴弾にて一室に入れ殺す


秦郁彦南京事件』P120-121

ここで単発IDが乱入。

254 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2007/04/02(月) 18:24:43 H5X5BFfaO
>>248
まともな国語力があれば敵下士官を六人刺したって日記があったからって南京大虐殺があったという事にはならないと思うが?

神は左手を掲げた。

262 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 18:34:03 shjGzcZg0
>>254
> まともな国語力があれば敵下士官を六人刺したって日記があったからって南京大虐殺があったという事にはならないと思うが?

>>237>>238>>244はスルーに必死なようですが?

> >>225
> > 一つも南京大虐殺を証明する一次史料がないね。

井家又一日記
第9師団 第6旅団 第7連隊 第2中隊 上等兵

拾弐月弐拾弐日 (12月22日)
(略)
 夕闇迫る午後五時大隊本部に集合して敗残兵を殺に行くのだと。見れば本部の庭に百六十一名の支那人が神明にひかえている。
後に死が近くのも知らず我々の行動を眺めていた。百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林時付近の要地帯に掩蓋銃座が
至る所に見る。日はすでに西山に没してすでに人の変動が分かるのみである。家屋も転々とあるのみ、池のふちにつれ来、
一軒家にぶちこめた。家屋から五人連れをつれてきて突くのである。うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、
全く最後を知るに及んでやはり落付を失っているを見る。戦にやぶれた兵の行先は日本軍人に殺されたのだ。針金で腕をしめる、
首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。中には勇敢な兵は歌を歌い歩調を取って歩く兵もいた。突くかれた兵が死んだまねた、
水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中には逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。
いくら呼べど降りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となって二・三人が飛んで出て来たのを突殺す。
 暗き中にエイエイと気合いをかけ突く、逃げ行く奴を突く、銃殺しパンパンと打、一時此の付近を地獄の様にしてしまった。
終わりて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。
後の家屋は炎々として炎えすでに屋根瓦が落ちる、火の子は飛散しているのである。帰る道振返れば赤く焼けつつある。
向こうの竹藪の上に星の灯を見る、割合に呑気な状態でかえる。そして勇敢な革命歌を歌い歩調を取って死の道を歩む敗残兵の話の花を咲かす。

『南京戦史資料集1』P368〜373

ここでさらにネット右翼が無知を晒す。

261 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 18:30:40 IYt7y2gJO
>>253
んーとね、要する金でできたみかんを持ってこいといわれて普通のみかんを持ってくるようなもの。
前提が間違っているから結論があわない。
なかったら黙っていることが一番とウィトゲンシュタイン先生は申しております。

正確には、
「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」
" Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen." byヴィトゲンシュタイン
全く不適切かつ、意味不明な引用である。哲学者の名言を持ってくれば自分の発言に箔が付くとでも勘違いしたのであろうか。ネット右翼の真意は不明である。
神は右手を掲げた。

265 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 18:40:18 shjGzcZg0
>>261
> んーとね、要する金でできたみかんを持ってこいといわれて普通のみかんを持ってくるようなもの。
> 前提が間違っているから結論があわない。
> なかったら黙っていることが一番とウィトゲンシュタイン先生は申しております。

意味不明なのですが?
>>225
> 一つも南京大虐殺を証明する一次史料がないね。

飯沼守日記 <抜粋>
いいぬま まもる=上海派遣軍参謀長・陸軍少将21期

◇十二月二十一日 大体晴
 荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を
同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に
射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為
榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。

『南京戦史資料集1』P164

ここで神の言葉は途切れている。

269 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2007/04/02(月) 18:46:53 0dUUT5P10
>>265
お前は議論する能力がないね。
しかも、それは非常に怪しい史料だね。
当時の日本に、数万人を射殺するような余分な銃弾はない。
しかも全て、戦闘員の話ばかりじゃないかw
しかも南京にあった死体数とも合わない話ばっかり。
民間人30万虐殺はどこに行ったの?それだけが争点だよ?
結局、南京戦史資料集ってのも現代文にリライトがかかっていて、
一次資料と言えない物もあるんだよね。
バカ正直に信じていいものではない。

ネット右翼一次資料の呪文を唱えた!
なんとなく頭がよさそうに見えるようになった!
けど、中身はバカのままだった!

276 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2007/04/02(月) 19:04:04 0dUUT5P10
・・・てな感じで工作員も帰ったみたいだから聞くけど、

漏れらと相手の、どちらに説得力を感じました?
ちょっとそれを聞いてみたい。

このネット右翼、弱気なのか強気なのか分からないが、みっともない事だけは確かだ。哀れなことに現在の所、これには一件もレスが付いていない。


追記:
神去りし後に、ネット右翼は好き放題に言いまくるが、

284 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2007/04/02(月) 20:05:21 /ZJ+Tfyk0
>>277
それだけ撃ちまくれるほど弾があったら勝てたよなぁ
269 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2007/04/02(月) 18:46:53 ID:0dUUT5P10
しかも、それは非常に怪しい史料だね。
当時の日本に、数万人を射殺するような余分な銃弾はない。

神(?)、再臨。

332 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2007/04/03(火) 03:19:54 id:x7u0z2qV0
>>269
>当時の日本に、数万人を射殺するような余分な銃弾はない。

『南京戦史資料集』をパラパラと見ていましたら、たまたま、
第百十四師団(末松部隊)の「射耗弾薬概数調査表」が目に入りました(旧版P660)。ご参考までに。

第百十四師団『戦闘詳報』
附表第二其一 射耗弾薬概数調査表 昭和十二年十二月十五日 末松部隊

品目      三八銃実包
戦闘前の携行数 二、九五九、六五〇
受数          二二〇、三二〇
射耗数         五九一、九二五
残数        二、四九四、九七〇
補填を要する員数  四六四、六八〇
摘要 本表射耗弾薬は金山衛上上陸以後南京に至る間の射耗弾薬とす

これ以外に、「三年式機関銃実包」も八三二、八〇〇発携行しています。

各「戦闘詳報」を見ればいくらでも出てきそうですが、とりあえず。この「射耗数」を見る限りでは、
どう見ても「弾薬不足に苦しんだ」という状況には見えません。

ttp://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=2891;id=sikousakugo#2891

ぺんぺん草一本も残さぬほどの容赦の無さである。