返答

春の闇 - 玄倉川の岸辺
前半は相変わらず大袈裟ですが、後半の自分が上から目線での件は、そこまで意識されているのなら別に何も「反論」する必要もないかなと思いました。
反論になるか、返答になるか、対話になるか、とりあえずちょくちょく反応してみますね。

誤解あるいは曲解です。

うん、それは私の台詞でもあります。

少なくとも、人間性(人権と言い換えてもいいでしょう)の存在を否定したいという欲望を公然と認めています。

上記のエントリで回答している通り、私はどんな人物であろうとその人の人権を認めてます。
私のエントリからそのような解釈を経て、他者の人権を抑圧するような方も現れないでしょう。
ですから、kurokuragawaさんが深読みされるような心配は無用です。

実際に生きている人間の人間性が誰かによって否定されたとき何がおきるでしょう。企業は労働者を使い捨てにし、軍隊は敵国民を虐殺します。行き着く先はヒロシマでありアウシュビッツです。私は決して大げさなことを言っているつもりはありません。
もちろん私はhagakurekakugoさんをファシスト呼ばわりしたいわけではありません。議論の場で過激なレッテル貼りはたいてい不毛です。ですが、「敵の人間性を否定したいと公然と認める」のは危険であり、そのような主張を見過ごすのは正しいことではありません。

んな大袈裟な、と苦笑するしかないです。

「それならお前はいつでも『正しいこと』をしているのか」と聞かれたら「ごめんなさい」するほかありませんが、だからといっておとなしく引っ込むつもりもありません。

なんだかそういう義務感って疲れません?
正しいことを言う、正しいことを行うのが常に正解とは限りませんよ。
嫌味や皮肉ではなく氏の過去の言葉を引用しますが、
まさに『「道徳的な人」は尊敬されますが「道徳家ぶる人」は嫌われます。』ですよ。
私はこの言葉は誰がどのような状況で言ったにしろ、至言だと思います。
私にはkurokuragawaさんがその「道徳家ぶる人」になって、
正義を振りかざしているようにしか見えませんでした。
「正義の押し付け」は時として反発を食らいます。
今回のエントリからは、その事も十分意識されているように見えますけど…。

なぜこれが「おまえもやってるじゃないか」ということになるのでしょうか。理解に苦しみます。
私のコメントは「党派性が判断の先に立つ人たち」や「党派性>合理性・一貫性の人」を「同じ人類と思いたくない」と言っているわけではない。

「同じ人類と思いたくない」も「近付かないほうがいい」も「何を言っても無駄」も、同じ切断操作でしょう、と私は言っているのです。こう指摘すると、切断操作が悪いとは言ってないと仰るかもしれませんが、私のコメントを「切断操作の見本だ」と評しておいて、それが悪いとは言っていないは通らないと思われます。

無用の摩擦を避けるために「近づかない」とか「言っても無駄」なことは言わないのは普通に行われる処世術です。もちろん、近づくのを避けたり話をしない相手でも人間としての尊厳を認めています。彼らが不当に蔑まれたり迫害されることがあれば私は(私だけでなくほとんど誰でも)「それはおかしい、悪いことだ」と抗議するでしょう。

同意します。
私のコメントにも「こういう人とは近づきたくない」というニュアンスが込められている事をご承知下さい。

しかし、もし私が「党派性が判断の先に立つ人たち」は「同じ日本人ってーか、同じ人類だとは思いたくないです」と宣言したらどうでしょうか。人間性の存在を否定している(否定したい欲望を公然と認めている)のだから、彼らがどれほど苦しもうと牛や豚が屠殺されるのと同じくらいの同情しか感じないだろうと思われても仕方ありません。

同じ人類と認めてる方であっても、全くの他人の死や苦しみに対して「牛や豚が屠殺されるのと同じくらいの同情しか感じない」事は十分にありえる事ではないでしょうか。私は薄情な人間だと思われても別に構いません。私が薄情であるかどうかなどは、他人に解釈を押し付けるような類のモノでもなく、また私自身がその決定に参与しているとも言いがたいからです。

「困った人だ、近づかないでおこう」と「同じ人類だとは思いたくない」の間には大きな違いがあります。私にとってはコーヒーと紅茶、いやコーヒーと泥水ほども違っています。「あなたのカップに入っているのは泥水ですよ」と注意した相手から「お前もコーヒーを飲んでいるじゃないか」と反論されようとは、まったく予想もつかないことでした。

私は「係わり合いになりたくない人」を多少修飾して、「同じ人類だとは思いたくない」人と表現したのですが、誤解を招いてしまったようですね。貴方には泥水に見えたかもしれませんが、私が飲んでいるのはコーヒーです。それは本人にしか伺いしれない事ですよ…。エスパーでもない限りは。

hagakurekakugoさんの誤解の原因は、もしかしたら私が「上から目線」で、つまり「hagakurekakugoも酷使も同レベルのクズだ、それを指摘する自分(玄倉川)は清く正しく美しい良心の権化だ、俺を見習え」と説教したように感じられたからかもしれません。

まさに膝ポンの箇所です。誤解というより、そう解釈するより他の解釈が成り立つとは思えませんでした。ブコメなどでも私と酷使様を同一視して批判されているのも散見されましたし。それが誤解だと仰るのなら、書き方に不備があったのではないでしょうか。我が意を正確に伝えるのは困難な作業です。
ま、そこまでご自分を客観視されていらっしゃるのなら、なんかもういいかなと妙に満足してしまう自分がいますけど(笑)。

いまさら遅いかもしれませんが、もちろん私は「上から目線」でhagakurekakugoさんにお説教するつもりなどありませんでした。
hagakurekakugoさんに「『同じ日本人ってーか、同じ人類だとは思いたくないです』なんて言えばそれこそ酷使様と同じでしょう、違うとしても紙一重ですよ」と言うとき、まさに自分自身が「紙一重」にいる危うさを実感していました。

今更遅いよ!w
まさかお説教と受け止められてしまった事を反省されるとは思ってませんでしたので、ここは驚きました。

hagakurekakugoさんに「『同じ日本人ってーか、同じ人類だとは思いたくないです』なんて言えばそれこそ酷使様と同じでしょう、違うとしても紙一重ですよ」と言うとき、まさに自分自身が「紙一重」にいる危うさを実感していました。
レトリックでもなんでもなく、ちょっとした偶然によって私がhagakurekakugoさんに批判される酷使様だったり、あるいは hagakurekakugoさんと同じように「酷使様を『同じ人間とは思いたくない』」と公言していたかもしれません。人の心の奥底には常に闇が潜んでおり、いつでも押さえ込んでおけるとは限らない。「敵」を罵倒することは楽しく、自分が強く正しく立派になったように感じられる。一度味を覚えたら容易にやめられるものではありません。仲間同士で「あいつらを人間と認めたくない」「そうだそうだ、連中はクズだ」と言い合ったらさぞ楽しいことでしょう。私にはありありと想像できます。いえ、実際にそういうことをしたこともありますし、これからだってやるかもしれない。

うわー、聞いてるこっちまで痛い痛い。
一体どうされたんですかと問いたいほどに、真面目に自己批判されてますね。
自虐意識の強い人ですね、と私が言った皮肉に対する返答でしょうか。
だとすれば私の負けですw

自意識が傷つくので現在の私自身を「酷使様と同じ」だと思いたくはありません。ですが、「連中と自分はまったく違う」と確信することもできない。彼らと自分との差は紙一重だが、だからこそ、障子紙のように容易に破ることができる「人間性の尊重」という最低限の倫理を大事にしなければならない。私が信じているのはそういうことです。
私は自分が正しいから、強いからhagakurekakugoさんを注意したわけではありません。黙って見過ごすと自分が紙一重を破ってしまいそうだから、自分が立派だとは信じられないから、それが恐ろしくて「同じですよ(本当にそれでいいんですか)」と申し上げたのです。

うーん、話が大きすぎて(^^;)
私は酷使様とは関わり合いにはなりたくありませんが、「人間性の尊重」はしますよ。
kurokuragawaさんの杞憂です。

ですが、実際はネットを中心に(と言われてますが本当はどうかわかりません)「派遣村バッシング」が起こりました。
ネット右翼とか酷使と呼ばれる人たちははいったい何と言ったでしょうか。「失業は自己責任、クビに備えて貯金しておかなかったやつはバカだ」「彼らは気の毒じゃなくてあつかましい社会の寄生虫だ」。実例をあげることはできませんが、2ちゃんねるやYahoo掲示板のログを調べれば似たような主張がたくさん見つかるはずです。

その頃は2ちゃんやYahoo掲示板を全く見てなかったんで、そんなのがあったとは知りませんでした。さもありなん。こんなヤツらは同じ人類と…、おっとw

そのなかに「ここまで来ると思想云々ってより、もはや病気の類ですね。同じ日本人ってーか、同じ人類だとは思いたくないです。」という言葉があったとしても何の違和感もありません。いえ、違和感どころか「よく言った!」と賞賛されるのが目に浮かびます。そして、それを書いたのは自分だったかもしれない。
お化け屋敷の闇よりも、夜の闇よりも、人の、いえ、一般論ではなくてまさに自分の心の中にある闇を私は恐れます。

私は別にいいと思いますけどね。それぐらい。
私の解釈だと「こーゆーヤツらと関わり合いになりたくねー」って程度の意味ですんで。
ですがkurokuragawaさんがそれをダークサイドへの一里塚だと思ってらっしゃるなら、
kurokuragawaさんは使用されない方がいいでしょう。




全体的に再読して、気づいたんですけど、今回のkurokuragawaさんのエントリは私の批判(っていうより嫌味かな)に対しての変化を付けた返答がいくつか見られました。


まず『レッテル貼りが好きな方ですねぇ』に対しては

議論の場で過激なレッテル貼りはたいてい不毛です。

とレッテル貼りの不毛さを認め、


『自虐思考の人』に対しては

いえ、実際にそういうことをしたこともありますし、これからだってやるかもしれない。

と一番やりたくないはずの自己批判までしてます。


『氏は「ウヨサヨ」を相手にするより、自分の心のおぞましさと向き合うべきだろう。』に対しては

一般論ではなくてまさに自分の心の中にある闇を私は恐れます。

と、そのまんまかと思われるほど内容がシンクロしてます。


 これは説教、上から目線、嘲笑、罵倒、レッテル貼り、そういった様々な不毛なやり取りはすべきでないと判断し、それに即した行動をしようとしている風に見えます。前回のエントリは正直言って、「上から目線」の「説教」以外の何者でもありませんでしたが、今回のエントリは批判を受けて大幅に穏当な表現を使用されています。神妙過ぎて気持ち悪いぐらいですw
 もしかして本当にこれからはネガコメを使わない(ようなるべく努力する)と決心されたのかもしれません。しかしこの表現の穏当さが今回限りで打ち止めだとしたら、ご立派な言葉も虚しく響くだけでしょう。これからのkurokuragawaさんの言動に要注目ですね。嫌味でも皮肉でもなく。