Xーsportsと容疑者X

優しさや愛なんてものは有限なのかもしれない。


私は国母選手が顰蹙を買ったとされる映像を見ていない。しかし何故国母選手が問題とされる態度を取ったのか、その理由は東野圭吾容疑者Xの献身」で私が感じた違和感にあるような気がしている。
容疑者Xの献身」とはどんな話か。テレビ放送もされたし、ネタバレで書くと、キモメンの数学教師が隣に引っ越してきた母子家庭の美人の母に恋してしまい、その人が犯した殺人罪を肩代わりしてやるという話だ。一般的な評価ではミステリー小説と言うよりも、純愛小説として受け止められているようだ。
だが、その過程で数学教師はトリックの一つとして、まるで無実で無関係のホームレスを無慈悲に殺害している。純愛小説として読んで感動した人は、これに違和感を感じなかったのだろうか。恋した相手には無限の献身が出来ても、無関係の他人は殺しても構わない。これって単なる身勝手な人間ではないのか。
もしかしてフィクションの世界では、それがいいのかもしれない。その献身は特定の限られた対象にだけ向けられるべきなのかもしれない。
朝日新聞に国母選手は闘病中のスノーボード仲間のために尽力したとの記事が掲載されていた。それだけを見れば、国母選手は実は良い人だったんだと言いたいだけの記事に見えるし、実際そういった効果を期待しているのだろう。興味深いのは、そういった「良い人」でも、顰蹙を買ってしまう事が容易に有り得ると言う事だ。マスコミ対応を誤れば。
恐らく国母選手は服装や記者会見などは、数学教師のホームレスに対する目線とさほど変わらなかったのではないだろうか。自分が大事にしているのは、そんな事では無いと思っていたのだと思う。
物語の最後では、結局容疑者Xである数学教師はホームレスの殺人がバレ、刑務所行きになるだろう事が暗示される。
たとえ自分が大事にしたいものでなくても、大事だとされているものは、大事にしなければならないと教えてくれているようだ。フィクションでも、現実でも。